2010年8月31日火曜日

第七話:感想

いつもとは違った展開だったが、テンポもよく悪くない出来だったと思う。

ゲストの忍成修吾の快楽殺人者としての狂気、尾野真千子の愚かにすら映る遺族の怒り、飯田基祐の二重人格ぶり、どれをとっても迫力・空気感とも素晴らしかった。
山中崇、水野智則も、忍成・尾野・飯田らに比べると「演技をしてる感」があったが、全体のバランスとしては悪くなかった。遠藤要もああいう役をやらせると本当に上手い。

りょうも「私そんなに強くないんだけどな」というセリフのあと、伊達に背中を向けて歩き出すときの表情が実に素晴らしく、冴子という女性と伊達との関係を見事に表現していた。りょうの本領発揮だ。
演出も役者の演技をしっかり見せてくれる上に、それをクドくなく活かすリズムとグルーヴ感があって、このドラマによく合っていた。

脚本は前回同様にやや帳尻合わせな説明セリフが目についた。
これまでの久遠を考えると「法の裁きに関係なく人を殺すなんて許せねえ」と憤るのはあまりにも唐突で無理があるし、久遠部屋で語ったあすかの思いも長セリフで一挙に片付けてしまうのは見せ方として稚拙だ。久遠の「俺はあんたに救われた」も座りの悪いセリフだった。

これは脚本のト書きではなく演出のせいかもしれないが、闇の制裁のシーンでの伊達が余裕がなさすぎるのにも違和感があった。
日向の言葉も美代子の言葉も伊達にとっては迫るものがある言葉だろうが、闇の制裁人という仕事をしてきた中で、考えて来なかった言葉という訳ではないだろう。むしろ幾度となく自分に問いかけ続けてきた言葉なのではないだろうか。
今回、それでいきなり伊達から余裕が奪われてしまうには、きっかけが弱すぎる。
であれば、これまで堺がポーカーフェイスの下の伊達の感情を丁寧に演じてきたように、今回もあくまでポーカーフェイスの下で大きく揺れる感情を演じさせたほうが伊達らしくて良かっただろう。

そうでなければ、前回の久遠の件が伊達の心に変化をもたらせたとして、久遠と伊達のシーンを追加し、伊達の感情を描くという手もあった。
伊達は、文弥を殺された怒りで我を失っている久遠に、「憶測で人を裁けばそれはただの犯罪者だ。君が憎んできた奴らと何も変わらない」「法で裁ける人間は法で償わせるんだ。俺達がやってるのは復讐じゃない」と窘めた。
しかし伊達自身は自分がしていることに迷いはなかったのだろうか?

偉そうに久遠に言ったものの自分はどうだ?犯罪者と同じじゃないのか?復讐じゃないと言ったが、じゃあ復讐とどこが違うんだ?と、伊達は内心自問自答していたとする。
一方その隣では、久遠が伊達の言葉をまっすぐ受け止めて、俺達がしてることは犯罪者とは違うんだ、文弥の父親を殺したいと思った俺は間違ってたんだ、と少しづつ自分の中で消化し始めている。
伊達は闇の仕事で久遠が何かを見失ってしまわないよう見守ろうとしている。なのにその自分が迷っている…。そのことがきっかけとなって、日向や美代子の言葉に大きく揺れてしまった、というのであれば話はわかりやすかった。


伊達のしていることと、日向のしていることだが、基本的には変わらない。

伊達は第三話で久遠に「法で裁けない者を裁く。もちろん決して許されることじゃない」と言っている。また日向は今回「立件出来ない容疑者を始末する。間違いなく犯罪者です」と言っている。
もちろんその通りである。

真面目に解説すると、日本は多くの欧米諸国同様に「自由民主主義国家」な訳で、ざっくり言ってしまうと、日本国民は「公共の福祉に反していない限り、どう生きるかという個人の自由は最大限尊重される」ということと、「国民全てが等しく主権者であり、国の政治は国民が行う」ということが憲法によって保障されている。

で、日本ではこの「自由民主主義国家」であることを根拠に、「罪刑法定主義」という形をとっている。
「罪刑法定主義」というのは、「”刑法上”何が犯罪」で「どんなときにどんな刑罰が科せられるのか」については、あらかじめ法律で定めておかなければならない、という考え方だ。

何が犯罪でどんなときにどんな刑罰を受けるのかを、誰かが好き勝手に決めてたら、とてもじゃないけど自由になんて生きられない。
日本の主権者は国民なんだから、国民の代表機関である国会を通じてちゃんと法律にしときましょうや、ということである。

現代日本では、その法律に則って「無罪」か「有罪」か「有罪ならどのような罪でどれくらいの刑罰か」を判断出来る(裁判権を持つ)のは、「国家」のみだ。話題の裁判員制度も「国家の裁判権の行使」に参加する制度とされている。

裁判で決まった刑罰を科すことが出来る(刑罰権を持つ)のも「国家」のみ。
国家によって刑罰権の行使を委ねられた刑務官など以外は、例え遺族であっても刑罰の執行は認められていない。

武士階級の仇討ち法があった江戸時代と違って、現代の刑罰は「復讐」ではない。
他人の「法益」(生命、身体、自由、名誉、財産、平穏、など)を奪った罪に対して、その罪の重さに応じた「法益」を、「償い」として「国家」が奪うことが刑罰であり、刑罰には「再犯予防」や「犯罪の抑止」という目的もある。

当然のことながら、伊達や日向のように裁判権も刑罰権もない人間が、何人もの人間を自分勝手に制裁するなんてのは、とんでもない重罪にあたる。
殺していようが殺さずに死ぬまで監禁だろうが、法を無視して残酷な私刑を繰り返していることに何ら変わりはない。もはやそれは「刑罰」でも「復讐」ですらない。
そのことを理解しているからこそ、伊達は日向の煽りに理路整然と言い返すことが出来なかった。

闇の制裁人という許されざる行為をしている伊達だが、しかし彼は真っ当な感覚を失ってはいない。

「たとえ法で裁けなくても真実を明らかにすることが俺達の仕事」と教えてくれた井筒に憧れ、刑事としての己の感覚を信じて粘り強く捜査を続け、凶悪犯人に対してもその中に残っているかもしれない良心に期待して自首を望む。
必死で助けを求める久遠を救ってやりたい一心で仲間にしたものの、こんな許されざる行為に久遠を巻き込んでしまったことに後悔もしている。

むしろ感覚が狂っているのは三上だ。

妻と10歳の息子を殺された三上は、両親を殺され犯人を刺してしまった10歳の伊達に、亡き息子への愛情のはけ口を見つけた。
状況から考えても幼い伊達に重い罰が科せられる可能性は殆どなかった。きちんと罪を明らかにして判決を受ければ、伊達も人を刺してしまったという罪の意識を自分なりに消化することも出来ただろう。
しかし三上は、どのような手を使ったのか、伊達の罪自体をないものにしてしまった。

伊達は両親を殺した灘木を「憎しみ」から「殺すつもりで」刺した。
結果的に灘木は一命を取り留めたが、確かに伊達は灘木に強い殺意を抱いていたのである。両親を助けたい一心で正当防衛として灘木を刺したのではない。
灘木の言った「正義なんて通用しない。悪を倒したかったら悪になるしかない」という呪詛の言葉通りに、伊達は灘木を殺そうとしたのだ。

伊達がもう少し愚かで、自分が灘木を刺した意味に気づかなければ、伊達は三上が望んだように自分の罪を忘れてしまうことが出来たかもしれない。
しかし「自分は普通じゃない」と苦しんでしまう伊達にとっては、きちんと罰を受けることこそが救いであった筈だ。
そんな伊達が、心に深い葛藤を抱えたまま、少しでも前を向いて生きようと決めたのは、たとえ間違っていても自分への愛情を惜しまない三上のためだったのではないだろうか。

伊達が三上に心から感謝をしていることに疑う余地はない。
本心を隠した表情の下には、冷静に三上を見ている目も、三上を実の父親のように深く愛する気持ちもあるだろう。そして恐らく後者のほうが強い。
闇の制裁人になった経緯に三上がどのように関わっているかはわからない。
しかし三上がそれを正義と信じ真剣に伊達の助けを必要としていたら、それが必ずしも正義であると割り切れなくても、それが三上の中に巣食う悲しみに由来するものなら、伊達は三上のそばで三上が暴走しないように見守る道を選ぶだろう。

一方で伊達は久遠に対しては、過去の痛みを正しく乗り越えて欲しいと思っている。
理解して手を差し伸べてくれる大人が必要なら、伊達は久遠のそばで望むだけその役を負ってくれるだろう。家族の愛情を知らない久遠のためなら父にも兄にもなるだろう。
しかし伊達は自分の間違った愛情で久遠の成長を歪めたりはしない。
久遠の進む道を良かれという思いで勝手に決めることはない。辛くても苦しくても自分自身で正しい答えを掴んで欲しいと思っている。

第六話で久遠が文弥に自分を投影して冷静さを失っていたとき、伊達は久遠に冷静で客観的な目を取り戻すよう導いていた。その一方で文弥を助けたい久遠の気持ちを汲んで、文弥と久遠が救われるために単独で捜査にも当たった。
久遠の苦しみの深さを知る伊達にとって、文弥を殺された久遠の慟哭には心を揺さぶられただろう。久遠の無念をどうにかして果たしてやりたい気持ちだってあったに違いない。

しかし伊達は、かつて三上が自分の罪を揉み消してしまったような間違った愛情を、久遠に押し付けたりはしなかった。
久遠の心が怒りに雁字搦めにならないよう第三者の視点と正論を与えながら、久遠が自分の手で自分自身の答えを掴みとることを見守る道を選んだ。
そして出来れば憎しみや悲しみからでなく、暖かい思い出を支えに前を向いて欲しいと願っていた。
伊達は自分の感情に流されることなく大人として責任を持って久遠を導こうとしている。
それは三上が伊達にかけた愛情とはある意味対照的なものかもしれない。

伊達は三上の「おまえは悪くない。おまえが刺してなければ灘木は逃げ延びて誰かを殺してた。おまえは正義のために戦っただけだ」「俺達は楽しんでやってるワケじゃねえ、むしろ逆だ。それでもやっているのは…遺族の明日を祈ってるからだ」という言葉に何を感じただろう?
灘木は確かに人間のクズだったが、将来また人を殺すに決まってるから今殺したって正義という理屈は成り立たない。どんなに遺族の明日を願っていようが、辛い思いを感じているから許されて、快楽を感じているから許されない、というような話でもない。

伊達は三上よりもはるかにありのままを理解していた。だからこそ伊達は限界だったのかもしれない。闇の制裁を辛く感じていることを一目で久遠に見抜かれてしまうほど、伊達は疲れ切っていた。
「俺は伊達さんに救われた」という久遠の不器用な励ましが、今度は伊達を救うのだろうか。それとも自ら乗り越えていくのだろうか。第八話以降に期待だ。


さて、そろそろ佳境に入ってきた夏樹殺しの犯人探しとジョーカーの黒幕だが、ここで予想を立ててみようと思う。

まず、冴子が疑っているように、神隠しには警察内部が関わっている。
それが「当たり」であることは井筒が冴子を遠ざけようとする態度でも明らかだ。
そしてその警察内部の権力は、凶悪犯を無期禁錮刑に処せるだけの資金を持ち、首を突っ込んでくる人間を殺してしまうほどの凶暴性を持っている。

夏樹を殺したのも三上の言うように警察内部の犯行だろう。
伊達が違和感を感じるほど、警察中で井筒を犯人に仕立て上げようとする動きがあったなら、井筒は夏樹殺しの犯人ではなく、犯人に疎まれている人間と考えるのが自然だ。

おそらく井筒はその警察内部の秘密を知ってしまった人間だろう。
上手く牙を隠すことで自分は危険から逃れられたが、同じく何かを知ってしまった夏樹を守ることは出来なかった。
夏樹の携帯電話を持ち去ったのも、他の誰かが不用意に首を突っ込んで消されてしまうことがないように、それに関わる情報を削除したのだとも想像できる。

今回井筒は冴子に「夏樹を殺したのは俺だ」と告白したが、それも、そうでも言わなければ冴子が更に深入りしていくことは目に見えていたからだろう。それは冴子に命の危険が及ぶことに繋がる。
伊達への忠告も功を奏しなかった以上、冴子を守りたければ、井筒は「自分がやった」と言う以外にはなかっただろう。

一方、三上は伊達同様に「神隠しの実行犯の一人」として警察内部権力に繋がっている人間だ。

伊達が黒幕である警察内部権力についてどの程度把握しているのかはわからないが、もしこの警察内部組織が夏樹を殺した警察内部の人間と同一であるのなら、伊達は夏樹を殺した犯人の仲間ということになる。
井筒は、文弥の事件の際に久遠を泳がせたことで、現在、三上・伊達・久遠の3人が神隠しの実行犯であることを掴んだだろう。
自分のアリバイ資料を署で渡さずに、わざわざ「バーMikami」にまで持ってきたのは、三上に対する何らかの牽制と思われる。

今のところ黒幕である警察内部権力側のキャラクターは登場していない。
伏線として上っているのは、井筒が第一話で「殺してやりたい人間」として挙げた「刑事部長」くらいなのものだ。
おそらくはこの刑事部長が新キャラクターとしてこれから登場してくるのだろう。
10歳の伊達の罪をもみ消すために三上に協力したのも、もしかするとこの刑事部長かもしれない。

夏樹殺しと神隠し。この過去軸に関係するのは、井筒、あすか、冴子、三上、伊達。
ドラマのキーパーソンの一人である久遠の過去にはこれら2つとの接点がない。
4歳から虐待を受け続け、10歳で捨てられ、以降の生い立ちは不明な久遠が、夏樹殺害や神隠し発生の過去と何らか繋がっていくのか、それにも興味がある。

もし刑事部長が登場するとしたら、久遠と関係があるかもしれない。
久遠の父が息子の年齢の割には年齢を取っていることから、本当の父親ではないという可能性もある。背中の火傷はタバコの火によるものだけがあの父親が行ったもので、大きな火傷痕はもっと子供の頃に火事か何かで負ったものである可能性もある。
エンディングの久遠の背中に被る「一家惨殺」の新聞記事は、もしかすると刑事部長の家族の話で、赤ん坊だった久遠は幸い生き残り、証拠隠滅のための放火によって火傷は負ったものの、密かに助けられて久遠家で育てられていたという展開もあるかもしれない。

ドラマもいよいよ残すところ数回、息切れせず最後まで突っ走って、我々視聴者を楽しませて欲しい。


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