2010年8月25日水曜日

第六話:感想

いつか来るだろうと思っていたストーリーだった。話数は想像していたより早かったが、伊達たちの仕事が何であるかを再定義するためには重要な回だった思う。視聴率も前回の出来を見てどうかと思っていたが上げてきた。固定ファンがしっかり付いているようだ。
ただ脚本はプロットをそのままセリフにしたような出来であまり良くない。この脚本家であればもう少しプロットを整理して、役者の演技を活かす緩急をつけたいいシーンとセリフを生み出せる筈だ。練って推敲するだけの時間が取れないのか脚本に疲れが見えるのが残念だ。

構成に関しても今回は盛り込むべき内容が多くあった。しかし尺は変わらない。
であればプロット全てを無理矢理組み込むのではなく思い切ってバッサリ切って、伝えたいことだけを丁寧に描くほうが作品の質は保たれた。

演出もテンポが悪く、脚本の冗長さと相まって、散漫な印象を受けた。
それを補うようにBGMを多用していたが、俳優がきちんと良い演技をしているのにBGMで状況を説明しようとするのはどうにもクドい。
久遠の暴走を目の当たりにした捜査一課や鑑識の面々が、それこそ役名なしの俳優も含めて、それぞれの役の気持ちを伝えるいい演技をしていたのに、そこをガヤ扱いにしてしまったのも大変残念だった。
久遠と文弥のキャッチボールのシーンも、2人に会話させればいいところを、なぜアフレコにしたのか全く意味不明だ。

一方で久遠とあすかのシーンや、来栖と冴子のシーンなど、男女2人のシーンではいい雰囲気の絵が見れた。シーズン後半に向けて色っぽい展開かあるかどうかわからないが、あっても面白い。
文弥の転落現場に到着した伊達たちをすり抜けるように久遠が走っていったシーンも、赤いアロハの残像が鮮烈な印象を残す良いシーンだった。
久遠が文弥の頬を摘むシーンも、遺体になったときだけ摘み方を微妙に変えることで、それが死体であることを伝える絶妙な演出だった。

俳優陣については相変わらず上手い。
ゲストの高杉亘は「ダメな父親から戻れなくなってしまった弱い男」を実に巧みに演じていた。錦戸の少年時代を演じるのは「流星の絆」に次いで2回目の嘉数一星も、独特の存在感で久遠の過酷な過去を鮮烈に印象づけた。
文弥役の渡邊甚平、まお役の佐々木麻緒も、ポテンシャルの高さを強く感じる子役だったし、綾田俊樹は相変わらずのイイ味だ。螢雪次朗の演技の幅にも驚かされる。

文弥の遺体を前にした錦戸の演技も素晴らしかったし、堺の「ばかやろう」も堺にしか出来ない複雑で繊細な演技だった。鹿賀については全く申し分ない。
平山とりょうの相性も予想外にいいし、錦戸と杏のケミストリーも現れてきている。土屋も堀田と久遠の間の微妙な感情を堀田らしく丁寧に演じている。とてもいい俳優だ。
永岡、佐伯、井上、鈴木もそれぞれキャラクターを確立してきていて見ていて楽しいし、捜査一課の役名なしの俳優たちも存在感のある良い仕事をしている。

ただ気になったのは錦戸のアフレコだ。
表情ひとつで鳥肌が立つような見事な演技をしてみせるくせに、アフレコとなったら学芸会レベルにまで落ちてしまう。もう少し落ち着いてゆっくり喋るようにしたほうがいい。

ストーリーについては今回初めて闇の制裁を受けずに法で裁かれる犯人が登場した。それはそれで正解だったと思う。

視聴者のカタルシスは「闇の制裁」によってしか得られないという訳ではない。
受けるべき罰から逃げた者に「応報の罰」が与えられるシーンが見れれば、それで視聴者はカタルシスを得ることが出来る。
その「応報の罰」は当然「法による裁き」であっていいし、「犯罪を立証した上での告発」でも構わない。ドラマらしく「悪人が自ら墓穴を掘って大恥をかく」的なものでもいいだろう。それこそ闇の裁きは3回に1回でも構わない。
穴だらけのプロットで無理矢理に「闇の制裁」に持ち込むほうが、逆にフラストレーションが溜まるというものだ。

今回伊達は「自分たちのしていることは復讐ではない」と言い切った。
もっとも今までの話を見ていると「第三者による恣意的な復讐(私刑)」にしか見えないので、説明セリフで帳尻合わせをしている感は否めない。
では「復讐」でないなら何であるべきなのか?それについては次回書きたいと思う。


事件のストーリーラインについては、久遠の過去に大きく触れるものだった。

このドラマでは「遺族の心の傷を癒すのは被害者との暖かい思い出と、遺族の心を思いやる第三者の理解である」というメッセージを発している。
第一話で幼い息子を殺された両親も、第二話で母を失った息子夫婦も、第三話の孝行娘を失った母親も、第四話の一人娘を逆恨みで殺された父親も、第五話の夫を自殺に追い込まれた妻も、失った家族が自分たちを愛してくれていたという事実に気づいて、悲しみを乗り越えようとしていた。
第六話の今回、その遺族の立場になったのは久遠だった。

父親からの虐待と捨てられたという痛みから抜け出せずに、苦しみ続けている久遠にとって、第三話の被害者・晴香や今回の文弥の痛みは、まるで自分のことのように感じられただろう。
もし久遠が伊達のように「誰かからの救いの手」によって苦しみから救い上げてもらっていたなら「親にすら虐待されてしまう自分」を受け入れることが出来たかもしれない。
しかし久遠は誰からも救い上げられることなく、どれだけ我慢してもそばにいたかった父親にすら、結局は捨てられてしまった。

4歳で母を失ってから虐待を受け続けていた久遠には、母親の記憶も、普通の子供が持っている暖かくて他愛ない日々の記憶すらもないだろう。
あるのは一度だけ父親に連れて行って貰った海の記憶と、母親の形見であるカメオのブローチが連想させる母親のイメージくらいなもので、文弥が必死で取り戻そうとしていた「優しかった以前の父親」も持ってはいない。
幸せだった時代の記憶があれば「いつかあの頃に戻れるかもしれない」と希望も持てる。しかしそれすらもないとなれば、虐待される理由を「自分」か「相手」に求めるしかなくなる。

親から暴力を受けている子供の殆どは「親は悪くない」「暴力を振るわれてしまう自分が悪い」と思い込む。
虐待される理由を「自分」に求めて、「愛されていない」のではなく「悪いことをしているから叱られているだけ」だと考えるのだ。
「父親は悪くない」と言った文弥を理解していた久遠もまた「父親に虐待されるのは自分が何か悪いことをしているのだ」と思っていただろう。

しかし大人になれば「虐待された自分」が悪いのではなく「虐待した親」のほうが悪いのだと理解るようになる。
それは同時に「ただ単に自分が親に愛されなかっただけ」という現実を目の当たりにすることにも繋がる。
どんなに酷い虐待の痛みよりも、この「どれだけ耐えても愛されなかった」という現実のほうが、はるかに深く久遠を傷つけただろう。
その行き場のない怒りと悲しみが久遠健志という男を形作っている。

親に愛されなかった自分自身を受け入れて愛してくれる他の誰かを探すでもなく、誰かに自分を分かってもらおうとするでもなく、自分を閉ざして「はみ出し者のチャラ男」の仮面をしっかりと被ってしまった久遠に、救いの道など残っている筈がない。
鑑識員として物証を掴み犯罪を暴く仕事は、久遠に「正義」という寄る辺を与えただろうが、同時に限界も見せたことだろう。

第三話、第六話と、久遠は犯人に銃口を向けた。
その先に見ていたのは憎い父親の姿だったのだろうか?おそらくそうではない。
久遠が消してしまいたかったのは「どれだけ耐えても愛されずいとも簡単に捨てられてしまった自分自身」、壊してしまいたかったのは「そこから抜け出すことが出来ない自分自身」だろう。

もし久遠が伊達という理解者を得なかったら、久遠は自分自身を受け入れることも、行き場のない怒りと悲しみを消化することも出来ないままに、独りよがりな「正義」に身を任せてしまったかもしれない。
堕ちることで自分を壊してしまっていたかもしれない。

何がなんでも守ろうと思っていた文弥を殺されてしまった久遠は、今回、文弥の実質上の遺族だった。
「遺族の心の傷を癒すのは被害者との暖かい思い出と、遺族の心を思いやる第三者の理解である」というドラマのメッセージの通り、久遠は文弥からの最後のメールで、ただ耐えるだけでなく抜けだそうとする勇気を受け取った。
文弥は殺されてしまったが、文弥との暖かい思い出は久遠の心の中に確かに残った。
そしてそんな久遠の心を理解してくれる伊達や三上もいる。
悲しみはそう簡単に癒えなくても、いつか時間が「苦しさ」を「憎しみではない何か」に変えてくれるだろう。

今回面白かったのはこの後だ。

文弥の父・広之が犯行を認め謝罪したのを見届けた久遠は、文弥と伊達からもらった勇気を胸に実の父親に会いに行った。
15年ぶりにあった父は、一度だけ連れていった海のことも、久遠がその絵を描き続けていたことも覚えていた。幼い久遠が描いていたのと同じ絵を一心に描いている父親の姿を見た久遠は、再び父親からの愛情を期待しただろう。
見ているこちらも「愛されていなかったわけじゃない」というオチになるのかと思っていた。

ところがボケ気味の父親は久遠が誰だか判らず、虐待して捨てた息子に向かって「どなたですか?」と穏やかに微笑んでみせた。
このときの久遠の気持ちは察するに余りある。勇気を振り絞って父親に会いに行ってみれば父親は息子のことすら判らない。しかも自分には微笑みかけてくれなかった父が、見も知らぬ人間には柔らかく微笑んでみせるのだ。
結局また久遠の気持ちは置いてけぼりにされてしまった。

そんな久遠を慰めたのは伊達でも三上でもなくあすかだった。
あすかは久遠が虐待されていたことも父親に会いに行ったことも知らない。ただ久遠が落ち込んでいるのはわかるから、何も言わずにそばにいようとしている。
文弥のそばに久遠がいようとしたように、久遠のそばにもまた、あすかがいようとしてくれる。

父親に捨てられたあとの久遠がどのように成長したかはわからない。
しかし、こうして理解ろうとしてくれる人を得ていくことで、久遠は過去を乗り越えていくのだろう。
そして久遠にとって大切な人が増えていけば、久遠の暴走や狂気もまた少し違った形で現れてくるのかもしれない。
久遠はやっと得られた大切な人々に彼なりの精一杯の献身をするだろう。伊達や三上、あすかに心を開いていけばいくほど、久遠の彼らへの思い入れは深まる。

伊達やあすかに比べて不完全で不安定だが、頭が切れて実力があるぶん、久遠は敵に回すと厄介な男だ。
似たタイプの敵とガチでやりあうところも見てみたいものだ。


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